【7章:6話】
---------------------
シュラは一命を取りとめた。
傷は深いことに変わりはないので絶対安静ではあったけれど。
これで全てめでたしかと思われたが、シュラにはある異変が起きていた。
「うー。あーあー?あうー」
目が覚めたシュラの第一声だった。
キョトンとした顔で周囲を見回し、近くにあるものをを握っては投げ、差し出された飲み物を意味も無く振り払い、突然泣き喚き始める。まるで赤子同然だった。
事故の後遺症―――医者はそう診断した。
頭部に受けた怪我によって、シュラの言動が赤子へと退化した可能性がある。そう言われたシュラの両親は酷く落胆した。何も分からずただ喚き続ける姿は、既にオムツも離れた子どもにしては異常だった。
しかしこれも治療を続ければ治る可能性もある。そう信じてベルクロスト家は一丸となり彼を見守った。
*************
それから約一年ほどが経過した。
既にティリアレイの力で命に別状はないほどに傷は治っていたお陰で、シュラは健康になった。
あれからシュラは日毎に今までの感覚を取り戻して言った。
無事にベッドから降りて歩き回るようになり、今では走り回れる。食事も自分で食べられるようになったし、身の周りにあるものの名称だって分かる。言葉を取り戻し、話せるようになった。
しかし。
「シュラ!【俺】じゃないでしょう!?」
ベルクロスト夫人の声が室内に響き渡る。
村の中で一際大きな屋敷の中にある調度品は、過去のアーミス様式を模したもので品があり、どれをとっても高級そうだ。夫人もシュラの齢の子が居るには少し年老いているが、そのいでたちはとても上品だった。
ベルクロスト夫人は小さなシュラをたしなめた。
「あなたは【僕】と言っていたでしょう?俺、なんて乱暴だわ。誰がそう言うようにあなたに告げたの?」
「…誰も言ってないよ。【俺】の方が言い易いんだ。【僕】って何か違う気がして」
「あなたは僕、って言っていたでしょう!?」
「じゃあ今日から俺って言っていい?」
シュラは回復した。しかし様子が今までと違うのだ。
事故以前の生活状態に戻った筈なのに、まるで違うのだ。
ベルクロスト夫人は頭を抱えて嘆いた。
「ああ、どうしてこんな事になってしまったの!?わたくしのシュラはどうしてしまったというの…!」
人見知りで、引っ込み思案で大人しいシュラ。それが我が子のはずだ。しかし今のシュラは―――
「もう良い…?俺、もうアンタに怒鳴られるの嫌だ。どうしてアレコレ強制するの?」
「またそんな言葉遣いをして!お母様と呼びなさい!それにそんな言葉、何処で覚えてきたの!?」
シュラが口を開くたびに夫人はヒステリックになる。言葉を求めてくるクセに、言葉を返すといつもこうだ。そうではない、ああではない。その繰り返しだった。
例えばお手伝いを頼まれて引き受けると、「シュラはこのお手伝いだけはいつも嫌だと言っていたわ」と言われ、好きな色を聞かれて答えると、シュラの好きなのはこの色だ・と突っぱねられる。
自分は自分の思う通りにしているだけなのに、周囲の人間は皆否定する。
だが、自分に対して全く奇妙な印象を抱かない訳ではなかった。自分は森で賊に襲われて怪我をして、一命を取りとめた。その後、まるで全ての記憶や感覚を失ったように、赤子同然に振舞っていたという。流石にその当時の記憶はないけれど、徐々に感覚が身について、自身の成長を振り返る事は出来るようになった。
初めは何も分からなかった。けれど日々を過ごす内に急速に理解した。食事の取り方、歩き方、あらゆる事を。
最初の内は素晴らしい回復力だと喜んでいた周囲が怪訝な顔をするようになったのはいつからだろうか?脳の成長は留まるところを知らず、彼の年齢では使い方も知らぬ単語を楽々と使いこなし、手先はさほど器用ではなかった筈なのに、料理や果ては店で売っているようなアイテムも作ってみせるようになった。明らかに以前のシュラとは違う。
動作が戻り始めた当初は、両親はとても過保護だった。少し家を離れると大慌てで飛んでくるわ、逐一シュラが顔を顰めるたびに「何も怖いことなんてないのよ」と優しく囁いた。しかし両親の思いとは裏腹にシュラは成長を続け、嘗てのシュラ=ベルクロストの在り方に疑問を抱いたのだ。そんな様子にシュラじゃない、シュラじゃないと言われ続け、もう辟易としていた。
ベルクロスト夫妻が両親なのだと言われても実感が湧かない。
そもそもシュラ=ベルクロストとは一体何なのだろうか?意識の混濁を知って周囲はシュラがどのような人物であるかを毎日告げてきた。
引っ込み思案で、物静かで。動植物が大好きで、同い年の子どもより動物と遊んでいる事の方が多かった。勉強は人並み、運動神経はあまり良くない。口数は少なかったけれど優しくて両親想いの良い子だった、と。
でも自分は別に人見知りというほどではないし、引っ込み思案で喋れないというよりは、喋るのが面倒だ。そもそも同い年の子どもなんて顔も名前も知らないし、小さな子どもと大騒ぎするほど無邪気になれない。運動神経だって自分は良い。勉強も嫌いじゃない。
「誰だよ、シュラって…」
別人のように振舞え、別人になれ、と毎日突きつけられ、自分を否定される。
ここで生まれ育った筈なのに、この景色を一片たりとも懐かしいと思えない。…空しいだけだった。
家に居るのが嫌で外に出ると、自分の事故の事は有名になっていた上に村では村長と並ぶ家の一人息子とあって注目される。その度に「可哀相だね」「具合が悪いのは分かるけどあまりご両親を悲しませてはいけない」と言われる。「早く元に戻れるといいね」とまで言われる有様だ。
「…何処に行っても俺の居場所なんかないよ」
いつしかシュラは人の居る場所を避けるようになった。帰らなければならないギリギリまで、魔除けの結界の利く範囲を歩き回る日々。
「ちくしょう、何だよ…!」
一人ぼっちでシュラは村の外れに居た。込み上げる涙を拭うと思い切り頭を振る。泣いてしまったら、もう止まらないことが分かっていたから。
そんな折、何かの気配を感じてシュラは顔を上げる。
「あれは…」
ひらりひらりと舞う緑色の光。蛍のようにも見えるけれど大きさも動きも違う。
「蝶…?あんな蝶がいるのか?」
美しく光を零しながらはためく蝶にシュラは見入った。軽く自分の頭上を飛び回ると村の外へとまるでシュラを誘うかのように離れていく。不思議な存在に目を丸くしたシュラは慌ててついていった。
**************
ブルーティアの森は踏み入ってはならないと言われていたけれど、どうでも良かった。日が暮れて徐々に薄暗くなる森だが、蝶の光は一層強くなって、周囲を淡く緑に照らす。
息を切らせながら森の奥へと進んでいくと、開けた場所で人影が見えた。
「あんたは…」
蝶は人影へと近づいて、その人がすっと指をかざすと白い指に舞い降りた。まるで光が弾けるように消えると、それらは飛び火するかのごとく周囲に移り、木々が淡く光って今居る空間を優しく照らす。
「シュラ…。久しぶりね。ごめんなさい、漸く貴方に面会する許可をもらえて…。私からは出向くことが出来ないから、呼びつけるような形になってしまって申し訳ないと思ってる」
青墨色の髪、紫色の瞳。すらりと伸びた四肢に、村人とは違う紺の服を身に纏った20そこそこの女性。
「傷はもう大丈夫?何も後遺症は出なかった?」
女性は妙に自分を心配する。しかし見慣れぬ顔にシュラは訝しげな顔をした。
「…アンタは誰?」
「覚えていないの?わたしはティル…ティリアレイ=ファルメス」
「ごめん、知らない。昔は知ってたのかもしれないけど」
「記憶がないの?」
ないのか、と問われれば、ないのだと思う。でも今はあったのかどうかも怪しい。ティリアレイは悲しそうな顔をするけれど、それに罪悪感はない。もうその反応は見飽きたから。
シュラを見つめていたティリアレイは違和感を感じて急ぎ足にシュラに歩み寄る。一瞬狼狽するシュラだったが、頬に手を添えられ真っ直ぐに見つめられると何も言えなくなった。
「な、何だよ!」
「シュラ……じゃない…!?」
「は?」
言うに事欠いていきなり「シュラじゃない」はないだろう。もう言われ慣れたけれど、姿を見ただけで違うと言い放った人物は初めてだ。
「あなたは…シュラの魂じゃ…ない」
「…え?」
それから、ティリアレイはあの日の事件を詳細に話した。
シュラが盗賊に襲われ、命を繋ぎとめるために禁呪を使った事を。
確かにシュラの体は蘇った。しかし本来のシュラの魂はこの世に繋ぎとめる事が出来なかったのだろう。そして肉体に引き寄せた魂はこの世界を宛てもなく彷徨い、いつか消える孤独なもの。
術の影響で、シュラ=ベルクロストの肉体に別人の魂が宿った。
それが今のシュラだった。
驚愕の事実を聞かされたシュラは呆然としていた。
「なん…だよ、それ。何なんだよ!俺が元々肉体のない魂!?俺は俺じゃないっていうのか!」
これじゃただのハリボテだ。
誰も自分を必要としていない。
自分は誰からも生まれていない。
これではまるで―――
「人間じゃないのと…同じじゃないか…!」
「そんな事は―――」
「五月蝿い!」
ティリアレイは言葉を飲み込んだ。
今迄泣くまいと気丈に振舞っていたけれど堪えきれなくて、シュラの緑色の瞳から涙が零れ落ちる。不安や孤独、期待に応えられぬ罪悪感、あらゆる苦しみが一気に押し寄せて、シュラは膝をついて泣き喚いた。
「うわああああーーーーーーーーーーっっ!!」
嘆きの渦に突然生れ落ちて、苦しいという事も出来ずに必死に心を殺してきた。
何度も【今】を放り投げそうになったけれど、それでも踏ん張っていたのは微かな期待があったからだ。しかしそれすらも砕かれてしまった。
―――本当の自分を見て、愛して欲しい―――
誰にもいえなかった、小さな願い。
けれどそれすらもこの瞬間分からなくなってしまった。だって、自分自身すら見えないのだから。
「俺を今すぐ戻せ!」
「…それは…無理よ」
「どうしてだよ!?呼び戻す事が出来たんだ!その逆だって出来るだろ!」
「それは…あなたを殺すという事だから」
シュラの背筋にゾクリと悪寒が走る。魂の離散は即ち死を意味しているのだ。そうなれば、もう肉体がどうとは言っていられない。
「あなたも…命。それは同じことよ」
勝手な事を言っているのは分かっているけれど、とティリアレイは告げる。
シュラはもう居ない。その代わりに彼が宿った。シュラの事は助けられなかったけれど、せめて目の前の命は救いたい。悲しみに散らないで欲しい。命は尊いものだから。
気持ちのやり場がなくなったシュラは小刻みに震える。ボロボロと涙を零すと歯を食いしばって嗚咽を漏らす。
「ごめんなさい」と呟くティリアレイは静かに目を伏せた。