NOVEL  >>  W:CROSS  >>  3章:己の手で掴むもの
【3章:7話】
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「クラーディオ様っ…!」
 影は尚も迫ってくる。マリアに相手のエネルギーを感じ取るような力はないけれど、こんな悪意の塊のような気配が安全なものではないなんて、どんなに鈍くても分かる。
「手ぇ伸ばせ!掴まれ!!」
 クラッドは息を切らせるマリアに手を伸ばすと、マリアは必死にクラッドの手を掴んだ。一気にマリアを引き寄せると、クラッドは空いている手のグローブから彼の対鋼物用のクローが姿を現した。
 心音が聞こえるほどにきつく抱き寄せられたマリアは顔を真っ赤にした。クラッドに他意なんて微塵もないことは分かっているけれど、あまりに近い距離にマリアは硬直した。
「良いか、絶対に暴れるな。そして何があってもしがみついてろ」
「は、はいっ…!」
 マリアはクラッドに言われて彼の胴に手を回して身を硬くした。影が迫る前に橋のロープを切り落とすと、クラッドはマリアを抱えたままある程度の高さまで振り子の要領で対岸まで引き寄せられる橋と共に大きく身を揺らす。マリアは恐怖に叫びそうになったけれど、クラッドの言葉を思い出して声を噛み殺した。

 信じなければ。
 命がけで戻ってきてくれたこの人を信じなければ。
 そう思った。

 安全な高さからぶら下がった格好になり、下の水中へ落ちるとクラッドは水の流れを辿りながらマリアを抱えて水中を泳いでいく。恐らく水面に出た際の襲撃を危惧してのことなのだろう。
 先ほどまでの猛追とは打って代わって、水中に入った途端影は追って来ない。暫しの潜水の後、漸く顔を出すと地下水路のような場所に出た。先ほどとは少し様子が違うことから、遺跡を抜けたのだろう。クラッドはマリアを抱えて岸辺に上がった。

「おい、生きてるか?」
 クラッドの声が聞こえて、マリアは硬く閉ざしていた目をゆっくりと開いた。すると眼前に彼の灰色の瞳があったため、マリアの頬は一気に赤くなった。
「何トマトみたいになってんだ、お前」
「ト、トマト…ですか…?」
「まあ息止めてたから無理もねぇか。とりあえずもう少し泳いで外に出るぞ」
 少し待っていろと言われてクラッドは再び水中へ潜っていくと、数分後に再び浮上してきた。どうやら出入り口となる格子を外してきたらしい。こんな真似までするなんて本当に散々だと言いながら、クラッドの表情はどこか諦め混じりだった。

 再びクラッドに引っ張られて水中へ潜り、外へ浮上すると空が見えた。しかし周囲は最初に見た湖ではない。どうやら水の流れに沿って逃げたお陰で離れに辿り着いたらしい。切り立った岩場に囲まれていて、人が普段から立ち入るような場所ではなかった。

 水中から這い出ると、マリアは必死に息を整えた。泳げない訳ではないけれど、こんなに命がけで泳いだのは生まれて初めてだ。
 …いや、泳ぐことだけではなく、全力で走ったのも、長時間歩き続けたのも、怪物に襲われたのも遺跡に侵入したのも、何もかもが初めてだ。

(リシェイ達はいつもこのような環境の中にいるのでしょうか…)

 リシェイは仕事の話を頻繁にしてくれた。巨大なモンスターと戦ったり、戦のために敵陣に突っ込んでいったりと武勇伝を聞くたびに、ただ心躍るような感銘 を受けていたのは、リシェイの住む世界がマリアにとってはおとぎの国のように『非現実』であったからだ。しかしこうして現実を目の当たりにするとリシェイ の度胸と勇気には感服する。


 マリアがふらふらと歩いて岩場に突っ伏するように崩れると、クラッドは傍で薪代わりになる木々を一箇所に集めていた。石を拾ってくると何度も打ち付けて火を起こした。最初は煙がかすかに出る程度だった火種が少しずつ燃え広がっていく。
「まあ、火が…!まるで術のようですね」
 何も手持ちの道具を使わずに慣れたように火を起こすクラッドにマリアは心から感動していた。「話には聞いていましたが、本当にこのような方法で火が灯せるのですね」と告げるマリアにクラッドは呆れたようにため息をつく。
「そっちの岩場の影にも焚き火作ったから、服脱いで乾かせ」
「ふっ、服をですか!?こんな屋根もない外で…!?」
「誰もこんな場所に来ねえし、オレだってテメェの着替えなんざ覗かねえよ!」
 狼狽するマリアを尻目にクラッドは上着を脱いで、水を搾り出した。一つに束ねた長い赤の髪に含んだ水も搾り出すと、少しでも早く乾くようにボサボサと頭を掻いて空気に晒す。

 再び振り返って火の傍に戻ろうとすると、まだびしょ濡れの服を着たマリアが両手で顔を覆って小さくなっていた。男の上半身裸がそんなに珍しく恥ずかしいかと呆れそうになるが、多分本当に珍しいのだろう。
 自分も貴族出身だから生粋のお嬢様なんて大勢見てきたので、こういうお上品さの塊のような女性に驚きはしない。いや、むしろ自分のようにざっくばらんな上流貴族の方が珍しいという自覚はある。
 別に生まれ育った環境による影響を責める気はない。しかし現状ではそのような問題ではないと考えるクラッドは苛立たしげにマリアに歩み寄った。

「なあ、お前何考えてんだ?一体どうしたい訳だよ?」
「なに…どう、とは…?」
 尚ももじもじとしながら顔を逸らすマリアに怒りさえ込み上げたクラッドは、マリアの顔を覆い隠している手を掴んで引っぺがした。「何をなさるのですか」と赤面しながら狼狽するマリアだったが、クラッドはいつものようにムキになって怒鳴ることはなく、いたって冷静だった。
「濡れたままだと風邪ひくだろ」
「ですが……」
「熱を出したらお前はどうする気なんだ?」
 低い声色で淡々と告げる言葉は、マリアは自身を気遣ってのものではないのだと分かった。いつものように大声で怒鳴られるよりも、今の方がずっと怖い。
「熱を出したら身動きが取れなくなる。這ってついて来られても直ぐに限界が来るし、それともお前を看病するために病院にでも張付けってか?」
「ク…クラーディオ様…」
「お前、リシェイやシュラの状況を知ってるんだろ?一緒に聞いただろ?どんなにあの二人が馬鹿そうに振舞ってても、常に喉元にナイフ突きつけられた状態で焦らないわけねーだろ!」
 そのことを考慮して、解決になるのならばと思い、遺跡内に入るところまではクラッドも何だかんだと言いつつ目を瞑ったのだ。

 確かに自分は一刻も早く王都リドガルドの騎士団本部まで戻りたい。だからマリアに戻れと何度も告げているけれど、単にそれだけではない。今はリシェイ達のためを思ってでもある。
「自分が城で後ろ指差されるのが怖いから、友達のリシェイは可哀相な自分を助けるべき、ってか?リシェイは強くて優しくて守ってくれるから、ずっとおんぶしてて欲しいんだろ?」
「違いますっ!」
「違わねーだろ!何かにつけてリシェイ・リシェイってくっついて、自分が困ればリシェイが助け舟を出してくれるのを無言で訴えてよ!お前、何かしらリシェイの力になろうと思ってるか?」

 クラッドは苛立たしげに岩場を蹴った。カラカラと崩れ落ちた破片を見て、軽く舌打ちをする彼に、マリアは怖くなってぽろぽろと涙を零す。

 こんな風に怒鳴られたことなどない。
 両親にだって、怒られたことなど殆どないのだから。

 屋敷にいれば皆が優しくしてくれる。困っていればすぐに誰かが駆けつけてくれた。正に温室育ちのマリアにとって、カルロンの街を出てからの日々はサバイバルにも等しい状態だ。
 そんな中、屋敷にいた時と変わらない対応を示してくれたのがリシェイだった。彼女だけが頼りだった。リシェイはいつでも強くて優しくて行動力のある子。マリアから見た彼女は、正に『何でも可能にしてしまう子』だった。落ち込んでメソメソしている自分に比べて、リシェイはずっと前向きに笑っている。

 だから心のどこかで思っていたのかもしれない。

 リシェイがいれば大丈夫。
 リシェイは自分に優しくしてくれて、いつでも助けてくれる。
 笑顔を曇らせず、常に明るく元気な彼女のことだから『リシェイは大丈夫』なのだと―――


 マリアは涙を零し続けたけれど、クラッドは慰め一つしなかった。ここで甘えを見せれば同じだからだ。
 しゃくり上げながら、マリアは何とか涙を止めようと心を必死に落ち着かせる。クラッドの言葉は厳しいけれど正論なのだろう。事実、指摘されるまで、何が起きても何とかなるという気持ちが心の片隅にあったと思える。

 『何とかなる』ではなく、『リシェイが何とかしてくれる』という方が正しい。

「あいつ…リシェイはお前に罪悪感抱いてんじゃねえか?」
「罪悪感…?リシェイが、どうしてですか…?」
 リシェイは何も悪いことなどしていない。むしろ救ってくれたというのに、何故彼女が自分に罪悪感など抱くのだろうか。
「あいつ責任感強そうだし。事件の当日だってお前らのことを守ろうとしたのに、お世辞にも良いとは言えない状態のままカルロンの街は凍結状態。だからせめてお前が望むことは叶えようと必死なんじゃねえの?」
「そんな…わたくしは…。わたくし、リシェイにそのような事を望んでなどいません!」
 助けてくれたことに感謝せども、それをリシェイの責任だなんて毛頭思っていない。しかしクラッドは見ていて感じたのだ。リシェイが異常なまでにマリアをかばおうとしている事を。

「言葉にしなくても態度に滲み出てるって言ってんだよ。…アイツはお前のことを何とかして助けたいと思ってる。お前はアイツにそう思わねえのか?あいつを助けてやりたい・力になりたいって」
「それは勿論…!」
「じゃあ今自分が最低限出来ることに対してきちんと向き合えよ。戦いはオレやあいつらに任せたって何も言うつもりはねえ」
 戦える人間が偉いとは思わない。それはあくまで各々が選び取った道だから、世の中には非戦闘員の方が多いことは承知だ。そもそも皆が皆戦えるようでは自分たちのような商売は上がったりだとも思う。
 だが、クラッドが思うのは、戦えない人間だから心根まで弱いという認識は間違っているということ。猛者でも庇えないほど甘えた性根の人間もいれば、腕力など無いに等しい弱者でありながらも人を毅然と導くことが出来る人物もいると、国の中枢で育ったクラッドは知っている。
「力や要領なんざどうでも良いさ。でもどこかで対等でなきゃ、いつか綻んじまう。オレは女の友情がどーのとか知らねえけど、そんなじゃ友達なくすぞ、お前」

 クラッドは言い捨てると「あー、寒い」と言って焚き火の方へと歩いていく。マリアはボロボロと泣きながら俯いていた。

 リシェイがいない。頼れる人がいない。そう考えがよぎった瞬間、自分はクラッドの言葉を全肯定しているのだと気がつくと同時に、リシェイはずっと同じく 心細い心境だったのだと理解することが出来た。リシェイは誰も頼れる人が居ない状態で必死に頑張っている。それどころか、守るものまで増えて―――。
 冷静になって省みればわかる事なのに、マリアは今まで考えなかった。
(わたくし…わたくしは…)
 マリアは涙を拭いて、トボトボとクラッドのいる場所の反対に作ってもらった焚き火の傍へと腰を下ろした。

 クラッドの言う通り、モタモタとしていたので本当に体が冷えてきた。周囲を警戒しながら服を脱ぐと、何とか洋服の水気を搾り出した。しかし今迄拭き掃除 すらもした事がないため、布を絞るにも上手く出来ない。クラッドは一度捻るだけで水溜りが出来るほど水を出せていたのに。

 大岩の反対から苦戦する声を聞きながら、クラッドは沈み始めた夕日を見つめて岩に背をもたれさせた。
 黄金に染まっていく空と水面はキラキラと輝いている。岩壁に反響して聞こえる風の音は歌声のようだった。

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